夜は静かだね。夕食どき、会話の切れ目に、子どもがふいにつぶやく。そうだね、秋になって虫の声もよく聞こえるね。あの音? ううん、あれはヘリコプターの音、そっちの窓じゃなくて、ベランダのほうから聞こえる音。どの音? あの、りんりんりん、しゃんしゃんしゃんっていう音。食事を中断し、音をさがしに二人でベランダに向かう。
音や味、かたちのないものを伝えるのはむずかしい。普段つかっている言葉もちがうし、好みもちがう。どれほど言葉を積みあげても、その本質は伝わらない。言葉はしょせん、見て、聞いて、触って、嗅いで、味わえる場へいざなうものでしかない。本物は、体験することでしか伝わらない。
ベランダに二人でならんで耳をすます。あの音かあ、と感心したようすでつぶやく。季節の移り変わりも、畑の土のやわらかさも、田んぼの用水路の水のつめたさも、にんじんはどれも同じではなく、好きな品種と苦手な品種があるということも、こうやってひとつひとつおぼえていく。彼の目の前に広がる闇のなかで、虫の音はやまない。ベランダの手すりをがっしりと握りながら、猫のような目で音の源を探しつづけている。